さんがつはつかねずみ

最近つくりかけの自分の歌  が、今日はあたまをこだまするようにずっと回転している。

二年ほど前から、そうね、京都から今の家に引っ越してから、
暮らしを畳むことを考えつづけてきました。
まあものは実際増えてるんだろうけど。
漫画も雑貨も買わなくなったけど
身につける衣類とかは買うし
人にもらったもの、もらった手紙、行ったライブのチケット、思い出の品、楽器。
そういうものは少しずつ部屋に増えているけれど。

身辺整理、とゆう言葉がしっくりくると思う。
身の回りを、片付けて畳んでいかなくてはと思っている。
例えば思いでの品にしろ、箱にまとめるなりして自分の中で、落とす。
使いかけの、でも使っていないもの等は、使うか、
その見込がなさそうであれば、捨てるという形で消化する。
残された人が困らないように
どうしてもみっともない、恥ずかしいようなものは
どうせ残ると思うけれど。

数日前の日記に
文句を言うのをやめたら言うことがなくなったと書いたけれど
同時に、一般的に「良い」とされることも特に書く気にならなくなったりもする。
いいことや幸せなことや誰かの目を喜ばせるフラットなものだけを、選んで書くのは、
やっぱり自分には、嘘くさいし不自然に思える。

喜びも悲しみも憎しみも怒りも
私にとってはベクトルのある、生きてる実感そのものであるので、
どれかを無理になかったことにするというのは、やっぱり、変ですね。

とはいえ私も、思ってることを全て出している人間かといったら全くもって違うし
嫌われるのいやだから言わないでいることも多いし
相手の様子うかがうというか 顔色見て態度も改めるようになったと思う。

大学卒業したあたりに、友達から、空気読めるようになったね、って言われたくらいにはまあ。

それまでは、空気読む、の意味がわかんなかったんですよね。
人間と人間のコミュニケーションにおいて、嫌だって思ったら、いえばいいじゃないすか。それができずに黙る、っていうのは、それもそいつが選んだ選択肢なんだから、自己責任でしょ。
そんな感じでねえ
ある種、何も怖くなく、強かったってことなんですが

自分が自分らしくあることをずっと探し続けてきた。自分というものがわからなかった。まずそこでした。
この性分なもので他人は理解できないものだし理解してくれないものだって思ってたし。今も思うけど。

でも今は、
私の人生のなかに、明らかに「他人」というものが入っているのを
ひしひしと感じている。
それは両親も含め、
人を愛するということ、それを変えずに続けるということ、
それが、とても、私にとっては、自他共に、不可能に近く困難に思えることを知った、しかもそれが自分を生かしており、自分に必要不可欠な要素であることを知ってしまった。というのもあります。

私は人間がわからない。
これは一貫してずっとそうなのですが、
でも人間を愛している、のも本当なんですよね。
不完全で、不衛生で、泥臭く、
嘘臭く、意地を張って、思ってもないことを言ったり、
見栄を張ったり、欲張って、他人をこけおとしたり、
平気で殺しあったり、利用したり、
どーしようもない。

それでも知っておいて頂きたいことは、
私が信じているのは、性善説なんです。

ね。
「話が逸れた」っていう発想自体が、資本主義、合理主義の産物だと、
私はね、思いますよ。

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