oetsu


タオルつかんだ時になんか色がきれいで撮った。
 
なんか、考えなきゃいけないことが多すぎて、何も思い出せない。
 
これはただの責任転嫁かもしれないけれど、言葉には言霊ってゆう力があって、
最近、自分自身がいちばん、自分がドラマーでいいのか?っていうことがわからなくなってきたなあと思った。
やりたくない、ということでは全くなく、
また、自分の今に不満がある、ということでもないと思う。
 
自分でいいのか?という問いに対して何かを感じることの意味は普段ないと思っているのだけれど、
今は、よくわかんない。
自分がやりたいから、やってきたことだけれど、なんだか、それがいいことなのか、わからなくなった。
 
いいこと?
いいことって何だ?
 
なんだろーね
 
ぼくは自分がドラマーでない方がいいならドラマーでなくても全然いい気がしてる。
ただ、ドラムが一番、やってきた歴が長いし、楽器の中で操るのが得意というか、
身体の感覚や、リズムと密接につながれている楽器というものである。
 
音楽にとって必要な音とか、ほしい音、作ってみたい音を組み合わせてつくるのがすきだ。
だから、そのときドラムの音が必要と思えなければ、自分には叩けるビートは、無い。
無しである。
 
音楽が好きだ。
好きっていうのには人それぞれで色々あって、
音楽が好き、っていうのにも人それぞれで色々ある。
 
私は音楽が好きだからといって
ありとあらゆるジャンルの音楽を深く堀りもぐったり レアなレコードを探し回ったりしないし、
メチャクチャ好きなアーティストについて語れと言われても、べつに何も語れない。
あの曲と、あの曲が、すごく好きで、こういう時に聴いていて、染みたんだ~とか、
そういう自分の話になる。
 
音楽っていうのは、自分にとって、いつだって自分の話になる。
そのアーティストのファーストアルバムとかセカンドアルバムの変遷がどうとか、
歴史がどうとか、メンバー交代がどうとか、
正直全然知らないし知りたくもないしどーでもいい。
曲に残っている音が全てだと思うし 耳に入ってくるタイミング、
その時の自分の心の開き具合がすべてだと思う。
 
出会いのタイミングっていうのは、
その音楽が、ぼくの人生に対して、一緒に歩いてくれたタイミングっていうやつだと思う
 
音を鳴らすということと、聴くということの狭間とか違いは
実はよくわかってないのかもしれない。
いつだって誰かの鳴らす音のファンだし、
自分たちの鳴らす音のファンである。
そこに境目が必要なのかどうか、考えてみたことがあるんだろうか?自分は。
よくわからない。べつに考える必要もない気がしている。
 
でも、好き だけで、よく、分からなくなる、ここ最近は特に、
たまらなく難しい瞬間がある。
好きってことと、必要なってことと、作りたいっていう音とか、ぜんぜん違うような、むずかしい、とても難しいくて、わからなくなる
 
分かっている、やりたいことだけを、やりたいと思えるぶんだけ、やり続けたらいい。
わかっている。
 
やる気のあるやつが好きだ、でも、自分はどうなんだろうな、って考えたときに。
自分にとってはやる気あるんだけど、でも、それってどういうことなんだろうな、って
考えたときに。
 
音楽はものすごく自分のなかに 普通に 自然に そのままの形でずっとずっとあるもので、
ずっとそこにいるもので、
たまらず出してしまった鼻歌みたいなもので、
我慢できなかった嗚咽みたいなもので、
 
だから、自分をはなれて考えるとき、やっぱり、わからない。
いや…自分をはなれて考えるなんて、
できないのかもしれないと思う。
 

ぼくらの生まれてくるずっとずっと前にはもう、アポロ計画はスタートしていたんだろ?
本気で月に行こうって考えたんだろね、
なんだか愛の理想みたいだね

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