過去がいまに与えつづけるように

ほうれんそう卵焼きたべる。
それはやがて私のからだの中で、血になってめぐって、
この体温になって、消化されていく。
 
あったかいご飯と、この時間は、
確かにここにあって、確かに私の幸せなんだけどね、
それって なんなんだろうね、
どうせすぐ消えてなくなってしまうのにね。
 
 
離れた人のことは、良いことばかり思い出す。
 
母方のおばあちゃんのことを、たまに、ふと思い出す。
おばあちゃんは、小さい頃よく家出してた私を、迎えにきては、
家に帰る私を 近くの道の角まで見送っててくれて
(おばあちゃんの家は、同じ町内にあるけど家は別だったのです)、
見えなくなるまで ずーと手をふっててくれたっけな。
 
今でも、あの姿と、あの帰り道をはっきりと思い出すことができる。
腰の白いエプロンと曲がった腰がかわいいおばあちゃんは オリジナルのうたをいっぱい歌ってくれたんだ。
 
「あーすみちゃんはい〜い子〜 か〜わい〜い子♪」
とか
「なっかよっくしっなさ〜い あ〜ねお〜とと(=姉・弟)〜♪」とか、
 
名作揃いでした。
 
今もその愛を思い出すとなみだが出るのは、
私にその部分があまりにも備わってないからだって、そんな気がしたりもする。
 
わたしに理解できないことは、
やっぱり私のぜんぶを おおきくはみ出していることであって、
すごすぎて、意味不明で、その違いっぷりに 震える。
 
でも、おばあちゃんは、人を信じられんかった。
そのことも、たまに思い出す。
家の玄関に、5コも6コも鍵をかけては、入る時に四苦八苦してるさまが
おかしくってさ
 
今となってもあんまり笑えないのは
私もいつかそーなるんかなーとか、ふと、思うから。
私も人を信じられないほう、かな、って、思うから。
 
実家にいた頃の、ふるいむかしを思い出すと、
いがみ合う家族と、常にものさしで比べられてるような血縁関係に、うんざりしてはいた。
うまくやれないものだよね。
健康で育ってくれればいいだなんて、うそだよね。
 
おとーさんとおかーさんも、よく怒鳴り合ったり喧嘩してた。
 
私もいつかそうなるんかなあ、って、思っていたから、
愛とか恋とか、最終的に何の意味があんのかわからないって思っていた。
信じられるのは自分だけなんだろーなって。
だって、誰かを信じても、愛しても、裏切られて、嫌われて、いがみあうことになるのかもしれない。
なぜって、みんな自分のことが、いちばん、大事だから。
家族でもそうなんだから、他人だったら、もっとむりだ。
 
どうせ嫌いになるなら、なられるなら、
わかりあえないなら、傷つけあってしまうなら、邪魔しあうだけなら。
結局そういう風にしかお互いいられなくなるなら、
 
近づかないで、遠くから見てたら、一番幸せで、
それでも好きって思えるなら、ほんとに好きってことなんじゃないかなーって、
思っていたら、
まあ、
怒られたよねー
 
 
…あの子はげんきかなー
すごい好きだったけど
私がダメすぎてサヨナラだったんだったよね
世界の終りかと思っていたけど傷つけていたのは私だったよねー
とか言うのは今更で もう忘れかけてることに対して 美化しすぎだよねー
だよねだよねだよねー
 
ああ、でも、
たとえ嫌われても、自分の価値観の押し付けであっても、はじめっから自分であろう、って。
嘘をついて、虚勢はるのはもうやめよう、って、
思ったのは きみがいたからだよね。
 
恋をする。
喜びも悲しみも深くなる。
人生が色づく。景色がぜんっぜん違って 見える。
ひとつも無駄なことなんてない。
色んなことが、わかるし、かわるよ。

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