3月の頭から、
あれ?ないかも?
↓
え、もしかして、本当にない?
↓
うわー、ないー!
って なってた、腕時計が、何のことはなく、ひょっこり 部屋から出て来た。
よかった。
と同時に、
何度か「あれ?ないかも?」って思ったにもかかわらず、全く「探す」という時間が取れないまま、
無いかも、どうしよう、と頭の隅で思いながらも、その思考がずっと追いやられたまま、今日見つけた時にようやく、「あ!そういえば無かったんだった、忘れてた、あってよかった〜〜」
ってなっていることが、ヤベェな、って思っている。
生活的にも、生活空間的にも余裕のなさが半端ないなと思った。もはや情けなくもある。
ただ考えようによっては「必死に探す」という時間を割かずに結局見つかったのだからオーライである。
オーライだけどさ~~~、悔しい。
しっかりした人間のつもりは毛頭ないけれども、意識を保っていたい と、願い続けて、いたい。じゃない。
出勤後、腹具合がイカれてしまいトイレから暫く出れなくなった。(ゲリーズの名は今も伊達じゃないぜ!)
清潔で広くてフレンドシップ満点のトイレの包容力はすごくて、いつまでもいてもいいんだよ感がありますが、
仕事が終わらないのでタイムスリップ感を満喫してからオフィスへ戻る。
街なかを歩きながら、
結果と過程を混同すれば成立するセールスは、けっこう多いよなと思った。
一例でいうと(私は例え話がクソほど下手なのであまり意味がないかもしれないがこれも練習だと思って)
過程を売るのがビジネス本来ではあるけど、結果をアピールすることは、多いなと思う。
例えば街なかにあるマッサージ屋であれば、過程(マッサージ)を売るのであって、
「コリがほぐれた!」という結果が出るかどうかはお金に関係ない。
「結果が出た分だけ課金が発生します」という形では商売は成り立たないことが多い。
働いたぶんがパアになるような商売は誰もやらないからだ。
でも、やっぱりセールスプロモーションとしては、
「マッサージで、溜まったコリをほぐしていきませんか?」と、言ってくると思う。
売られているのは過程にもかかわらず、結果と混同される売り方をされるしかないのだ。
でも、お客の望んだ理想のところまで ほぐれきる事は、実際保証されていないわけである。
大抵マッサージであれば「60分○円」とか時間数で料金が決まっているから、それ以上のことは何も保証されてはいない。
「コリをほぐしていきませんか?」と言われるけど、「コリが望んだところまでほぐれるかどうかは保証しない」商売なのだ。
そう思うと、お金を払うというのは 信じ、祈るような気持ちだなあって思う。
売られているのは ただの 過程。 結果ではない。 ぼくらは過程を選び、お金を払っているだけなのだ。
あれ、これって馬鹿な話をしていますかね…
笑い
アイチューンズのストアで音楽を探す。ものすごく久しぶりの行動。こないだのライブで聴いたすごくかっこういいシュリスペイロフの曲をさがす、あった。多分これだ!便利な時代となった。
ぼくは今の時代のこういうところとか、大好きだ。
都会に出ていったり、いろんなCDショップ、レコード屋をまわって、「ないなぁ・・・店員さん、○○の××ってやつないですかね・・・(かなり待つ)・・・ないですか・・・ありがとうございます」とゆう過程を、繰り返す必要がないのだ。廃盤とか探してる場合は別なんだろうけど。バウ!!ワウ!!