さかなさかな

水を得た魚、というのは不思議な表現だ、と思う。
魚は本来、水の中で生きるものだからだ。

水を得た、ということは、その魚は、「それまで水のなかにいなかった」魚なのだ。
「本来生きるべき場所」に、いられていなかった、魚なのだ。

だもんで私のステージに対し「水を得た魚のようだ」と言った人の例えはまさに的確なのだろう。

音楽をやっていない自分は、何をやっているのかてんでわからなくなる。
音楽だけで生活は組み立てられていないものの、
それが無いと、ぜんぶ、いらなくなる、
そのくらいには、

「やる」ということはもはや、
魚であるぼくにとっての、水なのだ。

・・・

2012年11月19日
だいぶ体調が悪化してきている。
リポビタンDがきかない。
風邪薬でもたせる。
 
体がむしばまれている、という表現がしっくりくる感じ。
 
このままどんどん蝕まれて 小さくなって
きえてしまえばいい
 
馬鹿馬鹿しいやろ?
 
前を向いて生きることが正しいとみんな信じていて、
他人もそう思うことが幸せで、正しいのだと
思ってるやろ?
 
前向き、と、過去をごみくずみたいに扱うのはちゃうやろ。
 
そおな。
じゃあ、後ろ向き、と、過去を大事にする、っていうのもちゃうんやろうな。
 
私が。何か間違っちゃいるのだろうか。

音と僕 一昨日と僕(全文)

今日は君のお葬式、
はじめてきたよ、君のギターが
君がいないのに、あるところ、

そんな歌があります、

うたいながら。桜がきれえかった
夕暮れ
春のおとずれ
少し立ち止まって、ふりかえる、

私のライブを
本当に楽しそうだと言った人がいる
水を得た魚のようだと言った人がいる
変わったリズムを叩くひとだと言われたこともあるし
ドラマーらしからぬドラマーだ、と言った人もいた、

ここ一週間ぐらい、
メンバーがとても  私の存在を喜んでくれていた、その瞬間について
ときどき思い出している。

でもなんだか、いいか。いいのだ。

私も楽しいことをやるし、
楽しくなくなったら、
やめたらいいし、

やってることが、
やりたいこと、なのだ。

キャバーンクラブの先輩の、お葬式だった。
キャバーンクラブというのは私が大学時代にとても好きだったサークルで私の大学生活というのはほぼそれであった。
私にとって、ひとつの人生でもあったくらい。
今はちょっと違うけど、現役の世代というのは、その世界というのは引き継がれていて、そういうのを嬉しくも思い、いいなと思う。

私は、実のおばあちゃんのお葬式のときも通夜のときもさっぱり悲しくなかった人なんですが、
いろんな人のかおをながめて、
自分の命のなかで この人とほんの少し、関われたことは、
すごいことだったんだ、
そう思いました。

おばあちゃんのときは、亡くなったあと、何度か夢で見たあとに、もういないんだ、会えないんだ、ってことに気がついてやっと悲しくなって泣きました。

去年に亡くなった会社の同僚の子のことも、まだ、乗り換えの電車のホームで、そっくりな人を見つけて何度か見てしまうくらい、
そういう、途中で、
でも、それは、本質を言うと、悲しいだけじゃなくて、

忘れるが正しいじゃなくて、
引きずるのもたぶん違っていて、

そういうものだと、思っていて、

よくわかんないけど
大事なことです。

先輩・ロックちゃんとは飲み会で二回しかあったことなくて、
病気で亡くなったのですが、
お見舞いに行かせてもらいました。

そのとき、かれのお母さんが、
何度も繰り返し言いました、
「健康でいることがね、一番の親孝行やからね。あなたたちも、まずは健康でいてね。それだけでいいから。」

わたしは今日、ロックちゃんと、そう言ってくれた、そのおかあさんに、会いたかった、そんな気持ちでした。

ありがとうございます。
お顔が見れてよかったです。

メッセージを、棺の帯?に書けるやつがあってね。
ロックつづけます、って
そう書いてきてしまったのだった。

式の終わった会場で、ロックちゃんが好きだったCD、陽気な洋楽のナンバーが流れてた。
そのなかで泣いているひとたちと。

なんにも言えない
でもそれでいいと、思う、
自分のなかで、生きれたら、
うんやっぱり、なんにも言えない、

きのう、自分の(笑)お母さんと電話した。
あんたこんな遅くまで、大丈夫なの、だとか、まあ大体毎月のようにお野菜を送ってくれるお母さん。

昔は色々と要求がすごくて(とわたしは反抗期なので思てましたが)喧嘩ばっかりだったけど
最近は、体調のこととか病気のこととかばっか心配して、
忌野清志郎が大好きで笑、かれが亡くなってから、
むかしバンドやるって言ったときは最初モーレツに反対されてたけど今はともかく好きなことをおやりなさいというし、

なんかやっぱお母さんてすごいなーと思います。

なんとかまあ、大丈夫です。

なんか何が言いたいとかじゃないんですけど。
おわり。

・・・

2012年11月18日
腫れた目 こじあけながら 紅葉の嵐山へむかった。
世界が美しくて、一生懸命になっている間は
なにもかも忘れて  いられた。
感謝しましょう。与えられた役割に。
 
今日のテーマは、戦場カメラマンです。
髪の毛を切り、もんぺのようなおズボンを履いた私はさながら
あだ名がせつこです。
 
うるさいよ!!!
現場がなるべく燃え広がりませんように。
祈りこめて しゅぱつー。
 
朝7時の嵐山駅は さむうかった。
でも人がいない様子が嬉しかったのだ。
さしこむ朝日がとても美しかった。
 
頑張ってる人に会うと
きっと それって伝染するのだろうな。
頑張ろうって思えるのだろうな。
 
頑張らなくちゃ。
頑張らなくちゃなあ。

ご無礼も五分の沙汰

どうでもいいんだけど胸にずきーとすることのあと
どうでもいいんだけど胸にすうーとすることがあって

久しぶりの気分で
なにもかも放り投げて
久しぶりの会話をした!

そしたらさ楽しかったんだよね。
生きてるってかんじだったんだよねー

風呂釜覗き込みながら
お湯をためようと蛇口をひねってシャワーが出て水かぶって
「ヌオアァー!」って低音でて
水びたしにて爆笑した

ナントナクからしてみたことから
やっぱり、
わかることがたくさんあった、

くだらない遊びを、
一生続けたい、それを繰り返したい、
純粋にそう思った

一回仕事終えて
ちょっと皮膚科いって
会社もどる予定のなか
ゆうぐれの街  オフィス街の飲み屋繁華街をぱかぱか歩きながら、
昨日のピアノガール  しゅう君が言うてたことを思い出す。

借金はかえさなくて、いい、とか!いや、俺はかえしてますけどね!
とかそういうこと。

まあ要するに、そんな、なにか障害があったって、せかせか縮こまってたって大して変わらないさ。
言い訳してへんと
言い訳できへんうちに
やりたいことを
やれよってね。

そんでまあ、会社もどる前にそのへんのおいしそうなお店で、焼き鳥いっちょうしがんで帰るのもいいな、
と思った
(まあ私はとりにくは好きですが大した美食家ではないのでもののたとえ的な、でもまあたまにはいいかしらとかなんとか、かんとか)

今日はねえー
スーパーのレジに並んでて
レジ前で、あーこれ買おう、と思ったものが
目をそらして、次の瞬間に
ちがう商品になってた。

! ぽーん

ぼくの脳みそをうたがえや!
や!え?えええー

たった紙一重のこちら側

あれから、何度も読み直しては、
私はかれのように頭がよくなくて
良かっただけなんだ
思うだけなんですよね。
いい悪いじゃないのわかってて、皮肉で「良かった」ゆう言葉えらんでますけどね。

これだけ頭が働けば自分の価値にも強く意識もいくのかなっていうか、
なんていうか、「見えすぎる」ことでしょうと思うのだった。
頭がある程度悪いのは、生きるにあたり幸いだ、と思ったことありませんか?

私はもっと多くの場合、冷静でなく  感情的で  うまく言葉にならんとゆうか
ここまで人に伝えるぐらいの知能がないとゆうか  すげえファジーなんですよね。

理解されるために  もしくは自分の言いたいことを表現するために
受け取ってくれる、レスポンスをかえしてくれる、といった、
他人の力が必要なんです。わたしは。
おのれ一人では不十分で、力が、充足してないんです。わたしは。

まあ冗談はさておき、明け透けに申し上げますと「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という
気持ちです。

たとえ私が「無敵の人」だったとして、
多分私は無敵だからって、怖くないからって、犯罪をおかしたりしないだろう、と今は思うけど、
そうか、私は社会と、友人と、まだ繋がっているから、そしてそれをまだ求めているから、
やったら友達がみてる、とかそういう意識すら働いてるもんな。

この人は明らかに、「犯罪がおかしたかった」わけじゃないもんなあ。そこが無敵なのだけど。
判例を作っていただいて、死刑にされたい、これまでの生活よりも拘置所の方がずっと人間らしく扱われている、
と書いている。

「拘置所へ行くために」、「法的に死刑にされるために」犯罪を犯すという発想にはおよそ私は至らないと思います。
だから、なんかわかる気はするけど、ちっともわかってないんだろうな。
ともかく彼の文章は素晴らしいと思っている。彼は自分をよくわかっている。そしてそれを伝わりやすく伝える手段すら、ちゃんと持っている。行動のいい悪いじゃない。たいへん頭がよい。それゆえに、だろうかと想像する。

「なんでこんなことしちゃうかねえ。わっかんないねえ。あぶないわ。迷惑だわねぇ〜!」
ってオバちゃんとかがよく声高に言うけど、
「こんなことしちゃう人」「意味わかんない」
あーあくまであなたは他人ヅラだよなーって、私は思います、
それが平気で言えるやつはやっぱり幸せ者なんだろうし、自分と違う、不幸な他人の感情とか想像もつかないししたこともない平和な世界にいて、まあ世界が違うからわかんないんだろうなー
っていうだけですけど、
(それが悪いとは言ってませんよ。それが「普通」なのだろうと思います)

結果しか見ない、こうむった、あるいはこうむりそうな被害、利害関係しか見ない。ひとを見ない。
なぜそうしたか、この人がどんな気持ちで生きてきてそうしたか、一切関係ない。

でも、この人のいる世界というのは、そういうことだったんですよねきっと。
誰もが他人ヅラだった。
だから誰もが自分をどうでもいいと扱うのと同じで、自分も誰もをどうでもいいと扱う。
繰り返し言いますが、いい・悪いっていう話じゃないんです。
ただ、流れとしてはべつにどうってことはないと思います。

また、刑務所での服役も全く恐くありません。少なくとも娑婆よりは、人生の格差を自分に突きつけて来る存在に出会うことはないでしょう。いじめがあっても刑務官さんたちは、自分の両親や小学校の担任教師よりはきちんと対応して下さるでしょう。刑務所の生活には自由や尊厳がないと言いますが、自分には、それは娑婆でも同じことですから、何も恐くありません。また今回の逮捕を巡る報道により、自分は全ての日本人から見下される存在になり果てましたが、自分の主観では、それは逮捕前も同じで、それが単に顕在化したに過ぎませんから、特に改めて苦痛を感じません。

自分のデタラメな声明文を真に受けた前述の臨床心理士がtwitterで「愛する人を失って云々」などとツイートしていましたが、自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。

そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。

留置所で同室になった自分と同世代の男性が、「人生が終わりかどうかは自分次第でしょ」とよく言ってました。自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。

自分にはもうこれからはありません、自分に更生の可能性は全くありません。自分には「死もまた社会奉仕」ならぬ「死のみが社会奉仕」という言葉がぴったりと当てはまります。

繰り返し申し上げますが、自分のようなクズは何としても厳罰に処されなければなりません。
そして最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。
「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」
日本中の前途ある少年たちがいじけず、妬まず、僻まず、嫉まず、前向きで明るくてかっこいいイケメンに育つことを願って終わりにしたいと思います。

本日は意見陳述の機会を頂きまして、本当にありがとうございました。

もうだめだってなってる時を、
やり過ごせるかどうかは、運だと思ってます。
運とはいっても、私にとっては、声をかけてくれるような誰かの「行動」
そして自分の悲しみや苦しみや怒りをわかって聞いてもらえるような誰かの「愛情」
勿論それを毎回受けられるとは思っていないし思えないですが
でもそういうことに救われてる部分も含めて「運」とし、
今ここに、誰かには疎まれ、嫌われ、そねまれつつ、
誰かには声をかけてもらえる程度として、社会に、人のなかに、
「生きて」いるなと、
今は思います。

そこに、「森本明日美」という存在を確かに認めてくれているであれば、
好きも嫌いも憎しみも妬みも
うれしいよ。

いつもありがとお。

・・・

2012年11月14日
谷町筋の交差点で待つ。焼き鳥を買う。
うまくしゃべれない。
少しずつが、少しずつ まわってゆく世界へ。
一人で電車に乗って かえる。
 
誰かを助ける、なんてことも
力がなければただの理想論でおわりだな。
 
私は、強くなりたいわけじゃあないんだな。
でも 必要になるんだろうなあと。
 
なあ、なんでそんなこと言うんだろうなあ。
よわったなあ。

夢の花し

長い長い夢を見ていた
今日のは完全に漫画か映画みたいだった

アイアムアヒーローとガンツ合体したかんじ。少年漫画さ!
プラス私と、エンペラーめだか、そんで昨日お話ししてたひとYさん、サークルの連中(現役生たち)とか。

最初は目の前で噛み付いたり引っ掻いたりしてゾンビがふえてってうきゃーで大混乱、
なんかこのゾンビたち、おもに爪がすごく、伸びてて、めっちゃ強いひっかき攻撃なんです。
爪でむっっちゃすごい力で、バリバリと人をたがやすかんじで攻撃してくる。

友達の友達や恋人がゾンビなってとても悲しいかんじの事件がすこしずつ広がって行くのを聞いたり見たり、逃げたり。
街ぜんぶがゾンビになってくかんじ

舞台は大阪とか京都のど真ん中で登場人物は完全に私のなかでリアルだったなあ

なぜかわかんないけど、エンペラーが大ーーきな、空飛ぶ木造の船に乗った、
地面からは浮いてる。
そこにはめっちゃ強いなんかの神話の巨大な像がいくつも乗っていて、そいつらが僕らの味方になってくれた、守ってくれるかんじだった。

船でぼくらは人を助けていくかんじで
知り合いとかもめっちゃ探したりして、
エンペラーが船をおりて、私もそのあとをついてった、

砂嵐の街のなか、ざらざらの視界で、
エンペラーと歩いてるのがとても目に残ってる。いい画だなと思ったのだった。
そのとき、私の携帯に、こっちとは違う生き残りチームで移動してた、Yさんから電話があって、そっちのチームはめっちゃ強い神話の猿を味方に連れていってたのだけど、

「街を救うためにエンペラーめだかのうたが必要です、力を貸してくださいませんか、こっちからも猿をだします」
て真面目に言って、はっとして真面目に私も聞いて、
めだか君、 と伝えたら
砂嵐の景色のなかでめだか君が振り向いて驚いた顔をして黙って、考えてるようだった。

「夢の花」のフレーズがながれた

夢はそこで、おしまい

私は夢の中でべつだん強くもなんともなくけっこう傍観してるかんじだったな、覚えてないだけかしら。でも見てるかんじだったな。

で、シャワーあびながら冷静に、
この夢は自分のなんの願望もしくは恐れとかの顕れなんだろうか、と考えてみたところ、何と無く理解できたからちょっとすごい。いや、実際はわかんないけど。。

少なくとも私の中の小まい世界のあらわれだなとは思った。

ストーリーがひとつ腑に落ちたところで、
自分の後ろのとびらを、ひとつ、閉じた気がした。
扉は次に見えているつもりなんだけど
扉の向こうにあるのが道なのか、行き止まりの壁なのか、公園だとか草原なのか、どっかの家なのか、それとも、「誰か」なのか、
それは扉が開かれるまで、わからない。

・・・

2012年11月13日
11月13日、という数字になんだか、違和感をおぼえる。
そんな日付あんのか? って、なんとなく思って、
よく考えて、うん、まああるわな。そうよな。
って確認するような感じ。
11月35日。とか言うのと、同じような印象受ける。
いや、そんな日ないやろ。みたいな。
 
ちがうか…
 
 
私は背が低いです。
でも背が低いことを気にしたことはあんまりない。
ただ、人がそう言うので、低いんだろうなあ、とは知っている。
 
むしろもっと明らかな、違い、というのが私には目についてしまうので、そんなことは違いのうちに入らないと思っているのです。
背が低い人も高い人も、いるのは当たり前でしょう。
それに、目に見えることだから、見れば、わかるでしょう。
 
どれだけ近くにいた人のことだって、私にはわからないことだらけなんです。
自分にできないことを平気でやってのける人がたーくさん居ることも、知っています。
しかし、それがなぜなのか、とか、その人の話を、なんべん聞いてもわからなかったりします。
 
身長なんて、大したことじゃないんです。

えくせきうしょん

私がもう少し
上のひとに反抗して
上手に戦えてたら

私がもう少し
早く気づいて
かわせていたなら

あの子は死なずにすんだやろおか、

冗談はさておき、明け透けに申し上げますと
「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」
という気持ちです。

・・・

2012年11月12日
外の公園にひさしぶりな感じで うろつく。
たそがれてる場合とちゃうねんけどどうにもこうにも
今 ターボでがんばれない自分がいる。
 
休憩時間に 月光グリーン 聴いて、
むりやりエンジンかける感じで。
 
体調ちょっとずつ 崩しはじめている。
でも、大事なところだから、やらねば、
今はちょっと やらねば。
やらねば。

あの低所ん  あの手遺書ん

ぼくはご存知の通りレッテルを掲げて誰もがそうだねと言うような、
物書きではない、絵描きでもない、作曲家でもない、そういう意味では演奏家というわけでもない、仕事人というわけでもない、アーティストでもない、大してデザイナーでもないだろう、料理人ではないし、読書家でもない、パソコンマニアではないし、ファッション愛好家でもない、音楽収集マニアでもない。雑貨に詳しいかといえばそうでもなく、裁縫やモノ造りは全くといっていいほどするほうではない。スポーツとはむしろ縁が遠く、歩くのは好きだが特に決まって定期的に続けるような習慣は無く、山を登ったりするわけでもない。美容やコスメもべつだん興味がなく、日本や海外の歴史とかにも興味がなく、寺などの建造物の由来にもちっとも興味がなく、偉い人やテレビやメディアや有名人について知りたいと思うことがさっぱりなく、何かのグループコミュニティに属しているわけでもなく、旅行は好きだがそれほどどこかへ出かけるというわけでもない。

へたなギターを弾いて へたなうたを歌い、好きなうたを夢中でなぞるだけで一日は終わるもんだし、
つまびいて好きな音を探すだけでご飯も眠りもいらなくなったりもする。

飯を作り、ゆっくり食べおわり、食器を洗いながら、浮かんだ「途中道」とゆう曲を歌った。

ぼくの部屋には生活音以外は基本的に存在しない。
テレビもBGMも、本当に必要ない。
まあちょっと大げさにいうと頭の中で爆音で音楽が鳴ってるから必要ないってやつで

今日のベストテイクを家で何度も何度も聞いて、その度ワクワクして眠れやしない。
ぼくはぼくに刺激される。大丈夫、それだけで立派なギターヒーローじゃないか。

人に話せないことなんて何もない。
でも、嬉しいことも辛いことも話したいことほど人に話せなくなってしまった。

最近よく考える。
俺は何と戦っているんだ。

キッチンまわりを掃除した、べつにそこまで綺麗好きじゃないのでそれほどと思いますが
最近めっきり放置してた油よごれとか、そういうの。
ふきん漂白したりとか自分の普通。
そいで、もう少し家のことを片付けたら家を出ようか、散歩したいし、歩いていって、ひろい河原でギター弾きたいな、と思っていたけど
洗濯物まわしにベランダ出たら雨で、
知らなかった。想定外だった。。

22:40

最近よく考える。
ぼくは何と戦っているんだろうか。

何が自分を充たし、
何が自分を生かすかなんてとっくにわかってるし直感で実感でちゃんとわかる。

でもどれもこれも叶わない。

ひとは言う、
それだけが人生じゃないって。

でもぼくは思う、
生きてる、っていうのは、心臓が動いて呼吸ができるっていうことではないと。

だからうたを歌うんだと、
人と関わり、交わり、残すんだと。

本気でそう思ってるんだ。
でも、
いや、
もしかしたら、
でも、

そんなことばかり考えていたよ。

話しをしませんか。
その中には、悲しい言葉も混じっているかもしれません。
ぼくらは べつべつの違う人間だから、
辿り着きたい場所も きっとばらばらだから、
勿論分かり合えることなんて、ないのかもしれません。
 
でも、それでももっと深く関わって知りたい、と、
そう思えるのならば、
あなたがその価値を私に見出してくれるのであれば、
話をしませんか。
たくさん、話しをしませんか。

・・・

2012年11月11日
たくさん話しをしましょう。
その中には、悲しい言葉も混じっているでしょう。
ぼくらは べつべつの違う人間だから、
辿り着きたい場所も きっとばらばらだから、
勿論分かり合えることなんて、ないのでしょう。
 
でも、それでももっと深く関わって知りたい、と、
そう思えるのならば、
あなたがその価値を私に見出してくれるのであれば、
話をしましょう。
たくさん、話しをしましょう。
その中には、苦しい我慢や面倒くさい手間も含まれているでしょう。
けれどぼくらは べつべつの違う人間だから、
だから あなたの見ている世界がとても新しく、
まじわる視線が 新鮮で、一緒にいて楽しい、と思えるのでしょう。
 
そんな喜びのほうが いっぱい味わえる価値があるんじゃないですか。
 
…だなんてね。
 
・・・

もうあと一ヶ月くらいかあ。

対とる

私を大切にしてくれてると思う人たち、と、テキスト上で会話。

私の何が好きなんでしょーかね、
私はそんな魅力的な、誰かと比較してメリットのある人間ではないのは存じてますので。
これは謙虚なつもりも卑屈なつもりもなく、べつに私は自分を完璧だとも思ってなく人気者だとも思ってないのでただ自分らしくそれなりに誇りを持って生きてるんですが経験上あまりうまくいかなくそう感じるので言ってます。

何も知らないのは別に仕方ないのでいいけどたぶん知ってしまえばどうせがっかりするだけなのになあ。
何も知らんから好きなだけでしょう、と
いじける自分も  よくわかっていて

そのうえで
ぼくはぼくのたましいを誰かに合わせて無理に加工することは、やっぱり、しないと思う、
好きな人のために変わりたいとは思う。でもそういうのとは違うと思う。

つまり私からすると、みんな楽をしたいだけのように、見える、
あなたがたの好き、というのは  あまりに短気で無責任すぎるように  思ってしまう。
重たすぎると誰かは言うかもしれないが、べつに軽くてもいい、ただ真摯に素直に向き合ってくれればいいのだけど自分のケツもふかない無責任なやつが多すぎる。

味方以外が敵のつもりはさらさらないんだけど、というかむしろ、ぼくにはあなたがたがそういうふうに、見えてしまうぐらいで。
それが怖いし怖いから警戒している、

私のたましいのあり方を好いてくれる人に出会えたら  それでいいんだけど
でも難しいとも思うし別にそれが目的ではないんでどうでもいい。

自分にとって価値があることが他人にとっても価値があるとは、まさか思ってないから。

自分にとって大事なことを
軽く適当に傷つけられて、逃げられたら
怒るでしょう、
でも相手にとってそれはべつに大事じゃないから、自分が悪いと思わないんだよね、
それだけのこと、

ぼくのこれは他責か?

・・・

2012年11月10日
・・・
いっぱいいっぱいなのに、
けっこうしんどいことって胸の中にのこるなあ。
いっぱいいっぱいだから、かなあ。
余裕ないのに、真ん中に出てこられてもなあ。
 
まあ、そうか。
そんな上手にできてはいないものねえ。

さんがつ

長い長い夢を見ていた、
きみと、東京へ帰ることと、大学の友達と、やきもちと、歩くこと、ながーいでかいホースのような大げさな流れるプールが何本も、中学校の友人ふたりと、なぜだか金髪、くだらない話、親しみのうえで茶化された会話、母と、電車と、段取りの悪さ、生活、
 
人生のすべてが夢の中に入って真逆だと思った。
リアルだった、という説明には語弊が生じるくらいにはただのリアルであった。
 
藤崎竜の短編が好きだったのだけど
日に日に自分の濃くなる影に人格を乗っ取られて影のほうになってしまうという話があったっけな。と書いていて思うが、まったくもって悲観的ではない。
 
肺のローが
治らない
(おわかりかと思うがこの言葉の組み合わせがとても気に入っている)
 
昨日ずっと本を読んでいた。
眠りたくなかったのでずっとそうして寝ずにいたら
夢をみていたようだった
自分がまるで行ったことない場所へ行って何か感じたかのような
 
たましいを肉体でパラパラめくられる、ヴァーチャル・リアリティだった、
 
 
 

2012年11月08日
とにかく調子が悪い。
 
・・・
 
休まなきゃ。休まなきゃ ならない。
でも いつ。

五合位置

家のうえとしたが  いや全体か、が
ごごご、って地震みたいに揺れるときがなんどかある
なんだか危険を感じるが、ここん家はすぐそこに線路があることもあり
電車が通過するとそのたびにまず揺れるのでその錯覚なのかもしれない
揺れることはいいことだ、と思う。揺れない棒とか柱とかは、強い揺れが来たらまっぷたつ折れるから。

しなやかに曲がり  かけられる力を受け流さねばならない、それが強さかなあと

去年の末から我が家に来て大事にされている緑のしきものさんの上にダラダラしていた。めっちゃ体がしんどい。呼吸面である。なんだろうな、これ。

と、背中に激痛、
胸あたりを境目に、体が上下にまっぷたつに、ばきり、と割れるような、
そんな感覚で私は痛すぎてうなった。

なんだろう、
この呼吸のしづらさと何か関係があるのだろうかな。

別のこと書いてて思ったが、私の好きになるひとの感じというのは大概わかりやすいな。

・・・

2012年11月07日
死に向かって生きる。
生にすがって死ぬ。
 
誓いを立てるために、願いを断った。
 
あなたが来てくれたから。
 
それ以外に、何が必要だったろうか。