しんじることはもっと~
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幼稚園のころ、「将来なりたいもの」を書く時間に、友達の女の子とかは、
みーんな「お嫁さん」とか「お花屋さん」とか、似たようなの書いてて、
私も真似して「お花屋さん」て書いたら、すげー怖い先生にしかられた。
あんたはそんなんちゃうやろ。て。
えー。でも皆書いとうやん・・・不公平や・・・て ぶうたれながら、
最終的に、素直に、「ひとの絵を描くひと」てかいた。
ひとの絵を描くのがすきだから、ひとの絵を描いて、そいで誰かが喜んでくれたらばいいな
と言ってたなー。
でもそれで食っていくのはむつかしいし、
食っていくための ひとの絵というのは 私のしたいこととおそらく違ってきてしまうから困るよね。
たとえば 歌がすきな人の日常で口づさまれてる瞬間があったらば、もおそれ以上の歌のよろこびってないわ。とおもうのね。
電気が使えなくなっても、家がなくなって帰れなくなっても、喉をなくさない限り歌えるわけでしょう。
と、いつも思っていた。
いつでも一番価値があるものはね、
あなたのいのちひとつ。
本当に大好きな曲は、パソコンなくてもスピーカーなくてもギターなくても、頭んなかで鳴ってる、爆音で、
みな、さみしーのかなあ、とか最近は思う、なんか何をするにも、さみしーという自分の欲求だけで動いてるのをみせるのを人は避けてる、そんだけの気がしている。
彼氏がほしー、ていうのは、さみしー、じゃなくて、周りもいるしー、と言い換えて主体をぼかしたいだけ、なんじゃないかって。
何においても主体ぼけとう気がしている。誰かのためとか、普通はこうだとかいう、世間体。
いや、もちろん自分が正しいと言ってるわけでもなくて 自分もそーゆーところ大いにあるし。
一般的によく見る考え方っていうのは、すごくちぐはぐに見える、
世に言う大人なんてのはみーんなある種とても不器用で不完全だ。
好きな人には ダッシュで会いにゆきたいと思う。
けど、自分がしっかりせねば、まだまだそれはもたれかかりだなあ
なんてことも
大人ぶって いうけれど、
ほんとうは、単に踏み込んで傷つくのがそーとー怖いだけなんじゃないかって
思うかもしれん
うーん、うーん
おのれを一歩ひいてみる
考えることはあいするおきて、
信じることはもっと、
まあ、ぐだぐだ考えるよりかは、私は直感と感覚のひとだから
会いたいと思ったら後先かんがえずダッシュで走って会いにいってみます。
いってみてから気づくこともあるでしょー
好きな人に嫌がられるのは いやよね?
うれしいこと。
うれしいこと
ば
きみの夜が平和で
いい夢を見ることを祈るよ。
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