どんなふうに過ごしたって一日は一日なんだろう
私はこの体を持て余している
それでいてものごとは全て、おのれのキャパシティ越えてぎゅうぎゅう詰めで
どうにもならない
ごく自然に「いま」を選んだ。
べつに不満があるわけでもないし、不満がいえるほど自分で何かやってきた結果かと言われるとそうでもない。
ごく自然に「いま」になった。
ただ、こう立ち止まって、
自分が立っている処のあまりにも、ちぐはぐである感覚と、どう向き合ったらば良いものかわからない。
やさしい、他人の目の中に
自分が映るという不思議さを
自分という存在のあやふやさを
誰がどう肯定できるのだろう、
誰もがどうやってそこに立っていられるだろう?
私にはいつになっても人間が愛おしく、不可思議です。
そばに住む「他人」の目を大切に気づかうわりに、
自分の意思はきちんと決まって、それでもきみは、
ここにいるのだろか。
2012年1月 2日 「じゆうに がつ」
29日 もく 記
ゆーれいさんは生きている。
あなたの生活のすみずみに。
部屋の机のしたに
道端のコンクリートのうえに
高架のしたに
過ぎゆく季節のなかに
あなたが死んでも
あなたのことを私は知っているよ。
全部とはとてもいえないけれど。
どれだけ長く一緒にいたって、
今あなたが何を考えているか、さっぱりわかりやしないもの。
でもね、私は沢山知っているのよ。
あなたがどんなふうに、
どれだけの人を愛していたかっていうことを。
それはあなたがくれた音楽からわかる。
あなたが心に留めてきた、うたからわかる。
だから、安心して、
自由に、ゆっくり生きるといいよ。