ヴュイユアルマれージ

広告うるさいなあって思う、
だから、ぼくもそういうことは したくないなあって思う、
し、そういうことが多くあるところにいたくない、って思うし、
ただ去るだけではなくって、その理由について自分の個人の意見を、口に出すのと
行動する、っていうことをしたい
 
もちろん広告する側にも理由はあって
そうしないとこのサービスを運営していけないだとか、そういうことだから
責めるわけじゃなくって、
あまりにも目につくやつが いやだったり、
ってしたら 見ない方法をさがすよねっていう
そんだけなのだけれど
 
Twitterの、バンド関係のオフィシャル 告知とか ニュースとか 公共の情報とか そうゆうアカウントを片っ端からフォローを外して「リスト」へ放り込んで、「情報が得たい」と思ったときだけ「リスト」をのぞく、ということを昨年度にはじめた。
このことで自分の、フォローしているアカウントも、新しくフォローするアカウントも、フォローされるアカウントもずいぶん減ったと思う。
ただ情報はとてもシンプルになったし、見たいと思えるバンドを思い出したら自分で調べにいくとゆう、ぼくのかつてのサイクルに戻ったわけだ。
ただ、もちろんそうやってしたところで、誰かがリツイートして拡散した情報で、かなりの広告的要素のある情報はどうしても流れてくるし、
見たくない言葉、べつに知りたくもないニュース、聞きたくない諍いや愚痴、
完全に「自分の欲しいものだけ」にミュートする機能はどこにも備わっていないだろうと思う。
 
ただ、その、「便利な機能」をどんどん頼って求めていくこと、正当化すること、
ってすごく情けないし すごく 短絡的で 浅はかだなあってぼくは思う、
 
生きてて キツイ言葉を投げかけられることって あると思うし、
見たくないものを見てしまうことってあると思うし、
知りたくなかったって思うことだってたくさんあるだろう。
自分とは違う人の群れのなかで生きてるんだからさ。
 
それを、「避ける」のは機械の機能ができること、「便利」かもしれないけど、
「避ける」のが当たり前になってしまう状況に、慣れてしまう、っていうのは、
すごく 基礎体力奪われるっていうか・・・ 「耐える」能力を退化させてるなあと 思える。
 
自分にとって毒のある情報も
それに対しどう感じ、そこからどんなふうに学ぶことがあって、自分がどう対処するのかや、
それと触れた経験から、どんなふうに自分が噛み砕いて、消化して、身にしていくのか、
ぼくは、とても気になっている。楽しみだ。
 
人生が終わったとき、ぼくという作品が完成するらしい。
結果より、
プロセスをぼくは愛している。
プロセスが目的であることは僕にとって美学である。
それでいて、至ったときにようやくプロセスは完成する。
ぼくは、それがとても楽しみだ。

すん

ぼくの家が野菜天国に
きのうお家帰ってスンドゥブをした。スンドゥブの定義いまいち知らないんですが、母がスンドゥブ鍋の素とたくさんお野菜を送ってくれた。やけん。
 
201502042115_IMG_8937
はじめての 雑バナナミルクレープをつくりやした。
一枚一枚、とても パリッ と焼けたクレープ達が層になることで、あごが痛くなるほどの弾力が生まれました!!
 
201502061242_IMG_8944
~うまい~
 
負傷:あご
 
 
スゲー一回言ってみたいやつ言いますね。
 
俺より強い奴に
 
会いにいく
 
 
「今おれはデンタルフロスの歌を歌ったんだがお前の歯は綺麗になったか?」も
いつか言いたいっすね
 
 
一周した感じはあります。そおね、やっと、ひとくち、
 
人生が終わったとき、ぼくという作品が完成する
 
まあ、だから、効率とかあんまし考えれないんすよね、
そのかわり、着実に「進む」方法を考えやすいかなあ、そうでもないかなあ、
進まなくてもやってることたのしいもんね
こんだけ自分に興味あっても、わかんないことばっかりで飽きないよね、
 
かなしーきもち、想像力のうみ、むげんの言葉あそびなね
 
あした火影にゆくゆ、
ねるゆ