ゆーめ

ながいながい夢を見た。
ここ数年、あるいはもっとかも、でもけして遠い昔ではない、そんなすべての、総集編だった。
走馬灯とはこんな感じだろか。

僕はどこへも属したいわけじゃないし
自分や誰かを殺してまで生きていたいわけじゃないと思う。
でも  その思想が誰かべつの思想よりも勝っているとは、
けして思わない。

むしろ僕がいつだって感じてきたのは、
僕は誰よりも劣っているらしいということであった。

雨上がりの京都御所がめっちゃえかったです、写真にうつせないすごみ。
どしゃぶりにやられてカッパキャラは喜ばなければならなかったのにつめがあまかった

ゆっくりと電車は進み、
僕は新しい自分の町へかえる。

これじゃあだめなのだろうか、うーんうーんと、いろいろ考える、
でも一人じゃだめだし考えとるだけでもだめだしやるだけでもだめだ。
うーんうーん。

理想、理想、、このやり方じゃだめだ、、方法はともかく発想がこのやり方じゃだめだ、、

僕は人気者でもないしお金持ちでもない。そんなやつが、出しゃばるのが、逆効果なのだろおか。というちょっとした葛藤。
でも全くもって何かに対する不満や文句じゃないんです。そこはわかってほしい。
ただ、どうすればいいか相談したい、でも、どう相談したいか自分でもまだあまりまとまってないし、そのあたりに際して取り付く島も無いように今は思える。

いい夜はどこにだってある。毎日あらゆるところである。
イワン・カムチャツキーと、アカネイロヒキ、めっちゃよかった。

何がしたいの?
何がしたい、何がしたい、何がしたいのだろう。。

どうしてそんなこと聞かれちゃうのかしらん。私というやつはね。

わからなくなった。

帰りの電車で泣き出すのはなんとかこらえた。でも帰ってから1時間ぐらいずっと泣いていた、情けない話だけどいつだって率直に泣いてしまうから泣いている、「泣きたい」と思ったことは僕にはない。泣くのをこらえることはあっても。
なぜだか、はっきりとわからない、
どうすればいいか、わからなくなったんだ。

ただ自分の立場で考えてきた、理想を実現したかった。
音楽が、ライブが大好きな、自分の立場で体験してきたことから、実現したい理想。
やりたいことをやりたいだけだ。
そのために人を動かすお金が必要ならぼくは、対価を支払う。
でも、夜についてくる結果は、だれもの自由意思であってほしい。
そのために努力はするけど、
何かちがう。
何か根本的に、違う。。

そしていくつもいくつも考えた。

すこし気づいたことは、
ぼくは、自分に分不相応と思うものにお金は出せないと思う。
でも、大金持ちでない限り、誰もがそうやって取捨選択をして、自分に合ったものを選んでいると思う。

例えば20万円で絶対綺麗で健康になれるエステやマッサージがあるとする。
絶対綺麗で健康になれるのであれば、やれるならやったほうがいいよね。間違いない、早いほうがいい。
でも、そのためにそのお金を支払えるか?
それほどの対価を支払う価値が、「あなたにとって」あるのか?
つまり、そういうことじゃないかな。

僕にとって、
「一般女性と同じくらいにみだしなみをととのえるための化粧品」にかけるお金は3000円でも高いと思うし、
「どーしても好きなアーティストを見に行くチケット代金」は4000円でもその価値はあると思う。
「一杯のドリンク」に支払う500円はやっぱりどこ行っても高いと思うし、
「どうしても見せたいアーティストを呼ぶために三万円のギャラを支払う」ことはその対価としてべつに正当だと思う。

それだけだ。

その基準は、人それぞれでいいと思う。
つまり、納得できないことに、お金は払いたくない。それは共通であるべきじゃないかなと思ってる。

「1バンド、ちょっと気になってるバンドが今日は出るんだけど、チケット普通に高いしなあ、行くと交通費もかかるしドリンク代もご飯代もかかっちゃうなあ。今月は他にも好きなバンドのライブもあるし、むりだな。やめとこ。。」

どんなに「ライブ」「バンド」が好きな人でも、その「対価」を乗り越えて気軽に、知らないアーティストを発掘できる身分の人が、どれだけいるのだろう。

と、ぼくは自分の身分で、立場で、思ったのだ。

たとえばぼくは、この壁を、壊したい。
それがどういう手段を取るものかは思いついてないけど、たとえばこの壁を壊すために僕ができることが「自分で負債を負ってでもチケット代を安くする」ことなのであれば、ぼくはそのためにお金を払いたいと思う。
価格という敷居を下げて、音楽好きのお客さんが新しいアーティストを一度でも見に来てくれるのなら、ぼくがそのぶん自腹を切ることは、対価を支払う価値のあることだと思う。

自分でもはっきりわかってると思うことは、僕がやりたいのは金儲けではないということだ。
いや、ライブに関わる仕事をするかたなんて、ほとんどがそうなのではないかと思うけど。どうかな??

ただ、
ブッキングというのはライブハウスの毎日やってる「企画」であると私は思うのだけど、もしかして違うのだろうか?
企画者はお客さん集めるために宣伝をする。お客を呼ぶために努力をする。
あたりまえだ。いい夜にしたいから。

でもライブハウスはそのブッキングの日のお客を呼ぶために、努力してるのだろうか?
たとえばフライヤーをつくったり、他のライブハウスへまきにいったり、ネットでそれぞれのアーティストのおすすめポイントとかを紹介したり、その夜の組み合わせのこだわりを説明したり、広告を出したり、
してるのだろうか??その夜に人を呼ぶための最善の努力はしてるのだろうか??
してないのなら、それは、なぜ?

これは、特定のライブハウスや、こういった姿勢で運営しているところ全てに対する批判ではまったくなく、
疑問なのだ。
僕はお客としてライブにふれる、その人間の立場として、理想を追いかけたい。自分の求める最高のものを、だれかに提供してみたい。ともに味わいたい。
それにあたって疑問にぶちあたったわけだ。教えて欲しいのだ。

ノルマってなんだ?

正直、根本的な話、アーティストは、いい曲をやる、つくる、のが仕事だと私はおもう。
マーケティングや企画やお客集めの脳みそをかれらが持ってるべきとは、そもそもぼくは全然思えない。。使う脳、能力がぜんぜん違うとさえ思ってる。。個人的な意見だけど。
そりゃあ自分というものを押し出すために努力、アピールはいるだろう。
でも、その夜のお客を呼ぶ責任を、なんで「ぜーんぶ」アーティストに負担させるんでしょうか??

そしてそれが、「企画者」が、外部の人間となったとたん、集客については「企画者の責任」となる。
なぜなのだろう。どういった倫理で?

箱を貸す、PA技術を貸す、それだけがライブハウスの仕事だったら、今後、土地代も人件費も技術費も機材代もかかる、ライブハウスの未来がむしろ、ない気がしてるのだ。
何度も言うけど私はライブハウスが好きだ。だから責めたいわけじゃない。何も責めたくない。
ただ、心配してる。

アーティストは、どうすれば自分の曲をもっと聴いてもらえるか、しりたい。
どうすればもっと良いみちをゆけるか、それぞれの目指す目標の違いはあるだろうけれど、しりたいのだと思う。

その「マーケティング」のノウハウを持ってアーティストを指導し、先導し、いいところを伸ばし、お客にはそれを見せつけ、こんなにいい歌を歌うひとがいるよ!こんなに面白いのもいるよ!一度みにおいで!
そうやってブッキングし、たくさんのアーティストを見てきたノウハウで集客をしていく・アドバイスをしてあげる、のが、本来、ブッキングをやるライブハウスの仕事じゃないのか?

ぼくは文句をいってるだけだろうか??
でも、平日のライブハウスがさっぱり儲かってないときく。
そもそも、儲けが必ず必要ならば、
なぜ平日、お客がさっぱり入らなくて儲けも出ないこともわかっていながら、「毎日」店をあけてライブを行うのだろう?
じゃあもう、毎日やんなくていいのでは?  …とも思ってしまうのだ。
それよりひとつひとつのブッキングにもっと力を注いで、「ほんとに見なきゃ損だよ!!」っていう日、いいライブだけを、力と心をこめて、アーティストたちを支援して、作ったらいいのに。
いいアーティストを知らないなら、よそのライブハウスへ見に行って、探しにいけばいいのに!
そして最高の日をつくっていって、「あのライブハウス行ったらいい日しかないよ!」っていうネームバリューを、作ったらいいのに。

しかし家賃もかかる、維持費もかかる、スタッフの月給もかかる…なら仕方ないのかなあ。
そんならもう収入のため、アーティストからノルマとって、毎日ライブハウスをまわせば、毎日収入は入るもんね。

でも、それで今後もずっとやっていけるのかしら?

カフェや屋外、ノルマをとらない場所はどんどん増えてると思うし、
アーティストが足りなくてブッキングに困ってるマネージャーがたくさんいるようだよね。

このままでいいの?

「企業」と同じことかと思うんだけど、
どんなに会社が見た目立派でも、人がいなきゃ、仕事はまわせない。
仕事をできるやつをどんどん育てていかなきゃ、いい仕事はまわってこない。
そしてできる奴には相応の対価を払って評価してあげなきゃ、会社に人は残らない。

当たり前のことだけど、目先の利益、目先の損ばかり重視していくと、コンセプトも理念も何もない、流されてばかりの企業ができる。それでは潰れるのも当たり前だよね。放っておいても、時間は経っていく、物もヒトも滅びるのだから。

アーティストがいなきゃ、ライブハウスは成り立たない。
いいアーティストを育てなきゃ、音楽に未来はない。

支えなきゃ。
もちろん音楽には好き嫌いがある、人によって好みというのはわかれるとおもうけど、
せめて、あなたの大好きなアーティストを見つけて、心からプッシュしなきゃ。支えなきゃ。お客さんに教えてあげなきゃ!
そうでしょう。

ぼくはそれをやりたい。

ごく自然に、ごくあたりまえに、超個人的に、ふつーに、それをやっていきたい。

ライブハウス、音楽業界関係者、アーティスト、お客さん、リスナー。
その壁を、壊したい。

でも、何ができる?

ぼくは人気者でもカリスマでもなければ、人脈が多いわけでもなければ頭もわりい、お金持ちでもない。。

できることしかできないだろう。
でも、できることを、やりたいと思った。

誰のためでもないし音楽のためとか言うつもりもさらさらなくって、
自分が、そうしたいから。それだけ。
それが自分の思い描く理想だから。

音楽を、そこにかかわる世界を、ぼくはこの人生でとても好きになったから。

誰にとっても、もっといい形をさがしたい。そしてそれは、ある気がする、
なんとなくする。

だれか。
ああ、だれか、

ぼくはわからないのだ、
わかんなくなったのだ。
ただただ無力だ、

そしてとてもこれは自分の完全に個人的な感覚になってしまうけれど、
とても孤独だ、と思った。

もとより独りのつもりだった、
独りでも戦って、なにかをずっと好きでいられればそれでいいんじゃないかと思ってた。

襲ってくるその感覚は、どうあがいても深刻に深まってゆく一方で、
私は少し前の、何も考えずに頑張ろう、としていた自分のことがさっぱり思い出せなくなった。

わたしの命のつかいかた、
見つけたと思った、望み、
最後の望みだった、
でも、わからなくなった。
どうすればいいか、

どうすれば助かるのか、
だなんて そんな方向から考えたくないのに、なぜだか切羽詰まっているのだ。
情けないとおもう。

たぶん僕は本当は、
報われたかったし、
褒められたかったし、
愛されたかったし、
仲間が欲しかったんだ。

でもそれは、自分らしく生きるすがたでこそ意味のあることだと思った。
それがぼくには、とてもとてもとても難しかったんだ。

おのれの信じることを、つづければ、
行動をしつづければ、
叶うかもしれないし、
きっと誰かが見ていてくれるんじゃないか、と思っていたんだろう。

間に合うのか、わからない。
やるだけだ。
間に合わなければ、そこまでだ。
ぼくにはもう、何も失うことを恐れるものなどないのだから。
 
 
 
・・・

2013/03/02 香り
汚れたマフラーと、ボタンのとれたコートを床に放り出した。
ニットのワンピースを頭からすぽんと脱いだら
ついでに下に着ていたボーダーのタンクトップも脱げた。
えんじ色のタイツと、重ね履きの靴下をまとめて脱ぎ捨てる。
残った下着をぐちゃぐちゃっと取り外す。
染み付いた、たばこのにおい。
今日の自分を、自分たらしめていたもの、
それを全て落としたあとに、私は何のにおいだろか?
 
そんなふうに、ひとつずつ、何もかもなくしていっても、
ぼくはぼくなのやろか。
 
 
今日も平和で幸せです。
明日もこれが続く保証はないと思うので、
大事にかみしめときます。
 
何の前触れもなく
明日死んでしまうとしても
悲しむことはないよ。
 
覚えておいて。
あなた、しあわせだよ。