あれから、何度も読み直しては、
私はかれのように頭がよくなくて
良かっただけなんだ
思うだけなんですよね。
いい悪いじゃないのわかってて、皮肉で「良かった」ゆう言葉えらんでますけどね。
これだけ頭が働けば自分の価値にも強く意識もいくのかなっていうか、
なんていうか、「見えすぎる」ことでしょうと思うのだった。
頭がある程度悪いのは、生きるにあたり幸いだ、と思ったことありませんか?
私はもっと多くの場合、冷静でなく 感情的で うまく言葉にならんとゆうか
ここまで人に伝えるぐらいの知能がないとゆうか すげえファジーなんですよね。
理解されるために もしくは自分の言いたいことを表現するために
受け取ってくれる、レスポンスをかえしてくれる、といった、
他人の力が必要なんです。わたしは。
おのれ一人では不十分で、力が、充足してないんです。わたしは。
まあ冗談はさておき、明け透けに申し上げますと「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という
気持ちです。
たとえ私が「無敵の人」だったとして、
多分私は無敵だからって、怖くないからって、犯罪をおかしたりしないだろう、と今は思うけど、
そうか、私は社会と、友人と、まだ繋がっているから、そしてそれをまだ求めているから、
やったら友達がみてる、とかそういう意識すら働いてるもんな。
この人は明らかに、「犯罪がおかしたかった」わけじゃないもんなあ。そこが無敵なのだけど。
判例を作っていただいて、死刑にされたい、これまでの生活よりも拘置所の方がずっと人間らしく扱われている、
と書いている。
「拘置所へ行くために」、「法的に死刑にされるために」犯罪を犯すという発想にはおよそ私は至らないと思います。
だから、なんかわかる気はするけど、ちっともわかってないんだろうな。
ともかく彼の文章は素晴らしいと思っている。彼は自分をよくわかっている。そしてそれを伝わりやすく伝える手段すら、ちゃんと持っている。行動のいい悪いじゃない。たいへん頭がよい。それゆえに、だろうかと想像する。
「なんでこんなことしちゃうかねえ。わっかんないねえ。あぶないわ。迷惑だわねぇ〜!」
ってオバちゃんとかがよく声高に言うけど、
「こんなことしちゃう人」「意味わかんない」
あーあくまであなたは他人ヅラだよなーって、私は思います、
それが平気で言えるやつはやっぱり幸せ者なんだろうし、自分と違う、不幸な他人の感情とか想像もつかないししたこともない平和な世界にいて、まあ世界が違うからわかんないんだろうなー
っていうだけですけど、
(それが悪いとは言ってませんよ。それが「普通」なのだろうと思います)
結果しか見ない、こうむった、あるいはこうむりそうな被害、利害関係しか見ない。ひとを見ない。
なぜそうしたか、この人がどんな気持ちで生きてきてそうしたか、一切関係ない。
でも、この人のいる世界というのは、そういうことだったんですよねきっと。
誰もが他人ヅラだった。
だから誰もが自分をどうでもいいと扱うのと同じで、自分も誰もをどうでもいいと扱う。
繰り返し言いますが、いい・悪いっていう話じゃないんです。
ただ、流れとしてはべつにどうってことはないと思います。
また、刑務所での服役も全く恐くありません。少なくとも娑婆よりは、人生の格差を自分に突きつけて来る存在に出会うことはないでしょう。いじめがあっても刑務官さんたちは、自分の両親や小学校の担任教師よりはきちんと対応して下さるでしょう。刑務所の生活には自由や尊厳がないと言いますが、自分には、それは娑婆でも同じことですから、何も恐くありません。また今回の逮捕を巡る報道により、自分は全ての日本人から見下される存在になり果てましたが、自分の主観では、それは逮捕前も同じで、それが単に顕在化したに過ぎませんから、特に改めて苦痛を感じません。
自分のデタラメな声明文を真に受けた前述の臨床心理士がtwitterで「愛する人を失って云々」などとツイートしていましたが、自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。
そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。
留置所で同室になった自分と同世代の男性が、「人生が終わりかどうかは自分次第でしょ」とよく言ってました。自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。
自分にはもうこれからはありません、自分に更生の可能性は全くありません。自分には「死もまた社会奉仕」ならぬ「死のみが社会奉仕」という言葉がぴったりと当てはまります。
繰り返し申し上げますが、自分のようなクズは何としても厳罰に処されなければなりません。
そして最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。
「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」
日本中の前途ある少年たちがいじけず、妬まず、僻まず、嫉まず、前向きで明るくてかっこいいイケメンに育つことを願って終わりにしたいと思います。
本日は意見陳述の機会を頂きまして、本当にありがとうございました。
もうだめだってなってる時を、
やり過ごせるかどうかは、運だと思ってます。
運とはいっても、私にとっては、声をかけてくれるような誰かの「行動」
そして自分の悲しみや苦しみや怒りをわかって聞いてもらえるような誰かの「愛情」
勿論それを毎回受けられるとは思っていないし思えないですが
でもそういうことに救われてる部分も含めて「運」とし、
今ここに、誰かには疎まれ、嫌われ、そねまれつつ、
誰かには声をかけてもらえる程度として、社会に、人のなかに、
「生きて」いるなと、
今は思います。
そこに、「森本明日美」という存在を確かに認めてくれているであれば、
好きも嫌いも憎しみも妬みも
うれしいよ。
いつもありがとお。
・・・
2012年11月14日
谷町筋の交差点で待つ。焼き鳥を買う。
うまくしゃべれない。
少しずつが、少しずつ まわってゆく世界へ。
一人で電車に乗って かえる。
誰かを助ける、なんてことも
力がなければただの理想論でおわりだな。
私は、強くなりたいわけじゃあないんだな。
でも 必要になるんだろうなあと。
なあ、なんでそんなこと言うんだろうなあ。
よわったなあ。