暮れる途方に見る行方

今日初めて、外 でたら 夕焼け。
だめねえ
でも、綺麗や。この世界。
 
駅に向かう爺ちゃん。
犬の散歩するカップル。
買い物帰りのおばちゃん。
 
他人おらな自分が生きてるて実感せえひんなあ。
 
なのに、私が見てるのは、他人の中にうつりこむ、自分自身だけ。
狭い世界。私の中に存在できる私 だけが気がかり。
終わりまでに他人のなかにどれだけ残せるか、入りこめるか、
それが生きて死ぬということだと思っているようだ。私は既に、
過去の人です。全て過去に為るまでが最終的な到達地点。
 
…なのでしょうか?
それでもまだ他人を求める。それしか生きる術はないから。
 
レールに従い、ただ茫然と、死ぬまで生きる。
守るものがあって、暖かな幸せがあって、目の前の安定 安心を、維持することに力をそそぐ。
可能だ。すごいことだ。だって難しいことだもの。
 
それでも、欲しいものがあるから人は間違いも侵すし
何べんも歴史繰り返して知ったつもりでおったところで
目の前の一瞬のキラメキに、無条件でかぶりつくんじゃあないのか。
 
私は本能と感情の人 だからあんまり考えるのは得意じゃないし、向いてないけど
一人一人に明け渡されたそれぞれの新しい景色のなかに
私がいて、できれば いい色に染まるのが、
私は見たい。見て、いたい。見たい。
 
温(ぬる)く、旧(ふる)くなった室内の空気を入れ換える。
もうすぐあの人が帰ってくる。
待つのは得意。
終わりまで、待つ という行為自体、私の生きることそのものだから。
 
それでも愛し、憎む。
結果は残らなくても、過程は、のこる。
やらなかったんじゃない。
やったんだったら。
 
誰も見ていない この場所に、私は思う。
私は私で、 そう、私は、まだ生きている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください