誰にも認めてもらえずとも僕は僕なのだろおか

だれかのいたきおくが
少しずつ少しずつだれかのなかでおもいだされて
そのたび消化されていって
そこにはだれかはいなくて
いないことにも慣れていって
いなくっても平気になって
それってしあわせなのかな
慣れるのにも早くなったら
立ち直りも早うなって
それってしあわせなのかな
 
ずっと続くことなんかない、近くにいる人のこころですらそうなのだ、変わるのだ、
それを人は、前向きとゆう。
 
ぼくはもうずっと長いこと、いわゆる他人とゆう人間達との違いについて考察をすすめている、もはや研究といってもいい、
というほど真面目にはやってないし途切れ途切れなのだけれど
 
なぜかというとぼくは人間がすきだけれど、人間のことが全然わからないのだった。
だから知りたいと思うのはきっとそうゆうことだと思う。
人間だって宇宙のこととか、べつの生物のこととか、わかんないから知りたいから研究するでしょう。
ああゆうかんじだねと最近思っている。
未知なるものへのあこがれ、探究心、まさに人類ってかんじだね
 
僕の永遠のテーマのひとつなのだけれど、
 
どうして皆、他人の目がそんなに大切なのだろう、
そして他人の目が重要、ということの理由は、
他人が大切だから・・・、ではないらしいのだ。
ぼくはずっとさっぱり理解できないでいた。
突き詰めれば突き詰めるほど理解できないでいた、
結局「他人」はそれほど大切じゃない、けど、関係のある「他人」が大切という理由は、
自分がどう思われてるかは大事なの!けっきょく、自分の気持ちの問題なの!
 
・・・な、なんて他責的な我がままなんだ!
僕はおどろいた、めちゃくちゃおどろいた。
 
こいつらは人の心が読めるとでもいうのだろうか??
まさか読めないのに、「自分がどう思われているか」がわかるというのだろうか??
良い人でありたいから、良い人と思われたいから。というけれど、
それにしては誰かしらはいがみあっている。上っ面で会話をしておいて後で陰口をたたいとる。
あの人のこと、さっぱりわからないの・・・という。
 
わ、わかるわけがないじゃないか!
 
わかるわけがないのに、自分はこういう行動をとったんだから、その意味はわかるでしょう!察してよ!という。
 
わかるわけがない、わかるわけがないのに、
わかられたがっている。
わかられるべきだ、とさえ思っている・・・、
 
どうして、自分と他人を、対等に扱えないのだろう、
頭はいいはずなのに、
言葉も扱えて、想像力もあるはずなのに、
自分のイレギュラーをゆるせるのに、他人のイレギュラーを、ゆるせないのだろう、
 
どうして経験しても、経験しても、
同じあやまちを繰り返すのだろう、
 
どうしてそんなに奪うのだろう、
どうしてそんなに残虐なのだろう、
 
自分が、なにもので、
なにが、大切で、
なにをいままで殺し、なにを傷つけ、
そのうえでどうしても生きたいのか、
どう生きたいか、
なにを信じ、
なにを憎み、
なにを愛するのか、
それは誰に決められるものではないと思う、
それを探し出す喜びは、ひとつひとつが人生のギフトだと思う。
 
そしてそれらのギフトは全て、
「自分とおなじ」全ての人類や動物や植物、
生命それらにも
あるとは思わないのか、
 
あなたの身体はあなたが動かしてるんでしょう、
「こんなとき他の人ならどうするんだろう?」なんて
つまらないこと言うなよ、
 
ああ、やっぱりさっぱりわからないんだ!
 
でも、理解を急ぐ理由なんて、僕には全くない。
 
理解したいと思える今が、とても愛おしく、
少しずつ自分なりの答をさぐりあてている間のこのプロセスが
一番たのしいはずだ。

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